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11
日本語
歴史
平安時代末頃には、
[ "平安時代" ]
[ 450414 ]
[ 1302925 ]
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歴史
が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃、1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。藤原定家の『下官集』(13世紀)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「へ」の仮名の書き分けが問題になっている。
[ "11世紀", "12世紀", "藤原定家", "下官集", "13世紀" ]
[ 2718, 1574, 8901, 764868, 2692 ]
[ 4274, 2452, 14760, 2421793, 4245 ]
11
日本語
歴史
当時の発音は、1は現在の [i](イ)、2は [je](イェ)、3は [wo](ウォ)のようであった。
[]
[]
[]
11
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歴史
3が現在のように [o](オ)になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「ウォ」と発音しないように説いている。
[ "江戸時代", "18世紀" ]
[ 1763, 1791 ]
[ 2740, 2782 ]
11
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歴史
2が現在のように [e](エ)になったのは、新井白石『東雅』総論の記述からすれば早くとも元禄享保頃(17世紀末から18世紀初頭)以降、『謳曲英華抄』の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる。
[ "新井白石", "東雅", "元禄", "享保", "17世紀", "18世紀" ]
[ 30006, 1280497, 27700, 10284, 2699, 1791 ]
[ 53812, 4433178, 49010, 17032, 4253, 2782 ]
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歴史
「が行」の子音は、語中・語尾ではいわゆる鼻濁音(ガ行鼻音)の [ŋ] であった。鼻濁音は、近代に入って急速に勢力を失い、語頭と同じ破裂音の [ɡ] または摩擦音の [ɣ] に取って代わられつつある。今日、鼻濁音を表記する時は、「か行」の文字に半濁点を付して「カミ(鏡)」のように書くこともある。
[ "子音", "鼻濁音", "破裂音", "半濁点" ]
[ 35876, 51963, 106747, 52849 ]
[ 65418, 97444, 227592, 99213 ]
11
日本語
歴史
「じ・ぢ」「ず・づ」の四つ仮名は、室町時代前期の京都ではそれぞれ [ʑi], [dji], [zu], [du] と発音されていたが、16世紀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「つ」「づ」が破擦音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [ʥi], [ʣu] となり、「じ」「ず」の音に近づいた。16世紀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるローマ字で表されており、当時はまだ発音の区別があったことが分かるが、当時既に混同が始まっていたことも記録されている。17世紀末頃には発音の区別は京都ではほぼ消滅したと考えられている(今も区別している方言もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で表記されており、現在の「シェ・ジェ」に当たる [ɕe], [ʑe] であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがて西日本にも広がり、19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に [ɕe], [ʑe] が残っている。
[ "四つ仮名", "室町時代", "DJI (会社)", "16世紀", "口蓋化", "破擦音", "17世紀", "19世紀" ]
[ 166762, 131355, 966443, 2750, 103716, 117155, 2699, 994 ]
[ 400370, 299797, 3222481, 4326, 220069, 260070, 4253, 1615 ]
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日本語
歴史
平安時代から、発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。「次(つ)ぎて」を「次いで」とするなどのイ音便、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」とするなどのウ音便、「発(た)ちて」を「発って」とするなどの促音便、「飛びて」を「飛んで」とするなどの撥音便が現れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」とするなどのウ音便が多く、また、少数ながら「苦しき」を「苦しい」とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると、音便は口語では盛んに用いられるようになった。
[ "平安時代", "音便", "鎌倉時代" ]
[ 450414, 167071, 131356 ]
[ 1302925, 401355, 299798 ]
11
日本語
歴史
中世には、「差して」を「差いて」、「挟みて」を「挟うで」、「及びて」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音便形も見られた。これらの形は、今日でも各地に残っている。
[ "中世", "音便" ]
[ 16586, 167071 ]
[ 27550, 401355 ]
11
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歴史
鎌倉時代・室町時代には連声(れんじょう)の傾向が盛んになった。撥音または促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「ま行」音・「た行」音に変わる現象で、たとえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「イン」で「セッチン」となる。助詞「は」(ワ)と前の部分とが連声を起こすと、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」となった。
[ "鎌倉時代", "室町時代", "連声", "ん", "促音", "母音", "半母音", "イチョウ", "助詞" ]
[ 131356, 131355, 269853, 6425, 53244, 35881, 36228, 8588, 15564 ]
[ 299798, 299797, 721497, 10459, 100080, 65427, 66036, 14253, 25842 ]
11
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歴史
また、この時代には、「中央」の「央」など「アウ」 [au] の音が合して長母音 [ɔː] になり、「応対」の「応」など「オウ」 [ou] の音が [oː] になった(「カウ」「コウ」など頭子音が付いた場合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすぼめる後者を合音と呼ぶ。また、「イウ」 [iu]、「エウ」 [eu] などの二重母音は、[juː]、[joː] という拗長音に変化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戸時代には合一して今日の [oː](オー)になった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある。
[ "長母音", "子音", "欧州連合", "二重母音", "江戸時代", "17世紀" ]
[ 154290, 35876, 588718, 154310, 1763, 2699 ]
[ 365440, 65418, 1794582, 365482, 2740, 4253 ]
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歴史
漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [ɡwe] などという発音であり、「キクヮイ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(変化)」のように用いられた。当初は外来音の意識が強かったが、平安時代以降は普段の日本語に用いられるようになったとみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿命は短く、13世紀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は中世を通じて使われていたが、室町時代にはすでに「カ・ガ」との間で混同が始まっていた。江戸時代には混同が進んでいき、江戸では18世紀中頃には直音の「カ・ガ」が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている。
[ "日本", "拗音", "平安時代", "13世紀", "中世", "室町時代", "江戸時代", "18世紀", "直音" ]
[ 1384029, 36224, 450414, 2692, 16586, 131355, 1763, 1791, 289151 ]
[ 4821051, 66031, 1302925, 4245, 27550, 299797, 2740, 2782, 780309 ]
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日本語
歴史
漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され、日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の [-k], [-t], [-p], 鼻音韻尾の [-m], [-n], [-ŋ] なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し、[ŋ] はウに統合され、韻尾の [-m] と [-n] の混同も13世紀に一般化し、撥音の /ɴ/ に統合された。入声韻尾の [-k] は開音節化してキ、クと発音されるようになり、[-p] も [-ɸu](フ)を経てウで発音されるようになった。[-t] は開音節化したチ、ツの形も現れたが、子音終わりの [-t] の形も17世紀末まで並存して使われていた。室町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(罰)などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。
[ "平安時代", "中国語", "入声", "鎌倉時代", "韻尾", "13世紀", "ん", "音節", "子音", "17世紀", "室町時代", "江戸時代" ]
[ 450414, 3662, 40063, 131356, 142269, 2692, 6425, 35461, 35876, 2699, 131355, 1763 ]
[ 1302925, 5698, 72767, 299798, 331054, 4245, 10459, 64616, 65418, 4253, 299797, 2740 ]
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歴史
近代以降には、外国語(特に英語)の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ジェ・ディ・デュ」などの音に加え、場合によっては、「イェ・ウィ・ウェ・ウォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も使われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取ってみれば、従来の日本語にあったものである。「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ・ヴュ」のように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。
[ "子音", "母音" ]
[ 35876, 35881 ]
[ 65418, 65427 ]
11
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歴史
動詞の活用種類は、平安時代には9種類であった。すなわち、四段・上一段・上二段・下一段・下二段・カ変・サ変・ナ変・ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され、江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に、下二段は下一段にそれぞれ統合され、ナ変(「死ぬ」など)・ラ変(「有り」など)は四段に統合された。これらの変化は、古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが、顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただし、ナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。
[ "動詞", "平安時代", "ナ行変格活用", "ラ行変格活用", "江戸時代", "中世" ]
[ 20603, 450414, 141186, 141190, 1763, 16586 ]
[ 35775, 1302925, 327816, 327823, 2740, 27550 ]
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日本語
歴史
このうち、最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は、室町時代末期の京阪地方では、まだまれであった(関東では比較的早く完了した)。それでも、江戸時代前期には京阪でも見られるようになり、後期には一般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に活用したが、江戸時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで活用するようになった。また、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に活用したが、江戸時代には「け」の1段だけで活用するようになった。しかも、この変化の過程では、終止・連体形の合一が起こっているため、鎌倉・室町時代頃には、前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。
[ "室町時代", "江戸時代", "平安時代", "連体形" ]
[ 131355, 1763, 450414, 167944 ]
[ 299797, 2740, 1302925, 403916 ]
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歴史
形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。
[ "形容詞", "平安時代", "連体形" ]
[ 20809, 450414, 167944 ]
[ 36137, 1302925, 403916 ]
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歴史
今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。
[ "四段活用", "五段活用", "已然形", "江戸時代" ]
[ 141184, 104485, 167663, 1763 ]
[ 327808, 221854, 403046, 2740 ]
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歴史
かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。
[ "係り結び", "助詞", "連体形", "已然形", "奈良時代" ]
[ 114591, 15564, 167944, 167663, 2055 ]
[ 251566, 25842, 403916, 403046, 3202 ]
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歴史
係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。
[ "係り結び" ]
[ 114591 ]
[ 251566 ]
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歴史
ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。
[ "中世", "助詞", "連体形", "已然形", "係り結び" ]
[ 16586, 15564, 167944, 167663, 114591 ]
[ 27550, 25842, 403916, 403046, 251566 ]
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歴史
今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。
[ "係り結び" ]
[ 114591 ]
[ 251566 ]
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歴史
活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態を採っていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば、『源氏物語』には、
[ "四段活用", "動詞", "形容詞", "形容動詞", "平安時代", "連体形", "係り結び", "助詞" ]
[ 141184, 20603, 20809, 20899, 450414, 167944, 114591, 15564 ]
[ 327808, 35775, 36137, 36297, 1302925, 403916, 251566, 25842 ]
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などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。 このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。
[ "中世", "動詞", "形容詞", "連体形" ]
[ 16586, 20603, 20809, 167944 ]
[ 27550, 35775, 36137, 403916 ]
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歴史
形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。
[ "形容動詞", "連体形", "語尾" ]
[ 20899, 167944, 37156 ]
[ 36297, 403916, 67671 ]
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歴史
文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。
[ "助詞" ]
[ 15564 ]
[ 25842 ]
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歴史
今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。
[ "可能動詞", "室町時代", "四段活用", "動詞", "下二段活用", "江戸時代" ]
[ 41482, 131355, 141184, 20603, 157647, 1763 ]
[ 75208, 299797, 327808, 35775, 374597, 2740 ]
11
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歴史
従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。
[ "四段活用", "動詞", "可能動詞" ]
[ 141184, 20603, 41482 ]
[ 327808, 35775, 75208 ]
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歴史
近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。
[ "大正", "四段活用", "動詞", "日本語の乱れ", "第二次世界大戦" ]
[ 1128, 141184, 20603, 14608, 810952 ]
[ 1805, 327808, 35775, 24327, 2593589 ]
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歴史
受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に
[ "主語", "枕草子" ]
[ 37485, 9562 ]
[ 68295, 15809 ]
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とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。
[]
[]
[]
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歴史
「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。明治時代には
[ "明治" ]
[ 1126 ]
[ 1803 ]
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のような欧文風の受け身が用いられている。
[]
[]
[]
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歴史
漢字(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが、上古漢字の場合、馬と梅の発音は違う。異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた。
[ "中国語", "借用語" ]
[ 3662, 87620 ]
[ 5698, 179813 ]
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歴史
中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数(文中の同一語を一度しかカウントしない)で全体の31%を占めるに至っている。ただし、延べ語数(同一語を何度でもカウントする)では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている。
[ "仏教", "鎌倉時代", "徒然草", "混種語", "幕末", "和英辞典", "和英語林集成" ]
[ 2643, 131356, 27763, 522985, 7981, 75131, 680667 ]
[ 4182, 299798, 49183, 1581258, 13313, 149817, 2113081 ]
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歴史
漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという。
[ "幕末", "明治", "漢文", "和製漢語", "火鉢" ]
[ 7981, 1126, 33147, 61934, 98855 ]
[ 13313, 1803, 60343, 119867, 208362 ]
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歴史
漢字は今も多く使われている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている(「語種」参照)。
[ "語種" ]
[ 356343 ]
[ 987307 ]
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歴史
漢字を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる。
[ "サンスクリット", "仏教", "日本" ]
[ 4413, 2643, 1384029 ]
[ 6910, 4182, 4821051 ]
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歴史
西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。
[ "中世", "キリシタン", "宣教師", "室町時代", "ポルトガル語", "襦袢", "メリヤス", "スペイン語", "江戸時代", "合羽", "エニシダ属" ]
[ 16586, 25378, 16679, 131355, 5911, 148981, 64119, 37, 1763, 140367, 207096 ]
[ 27550, 44086, 27718, 299797, 9542, 350261, 124984, 92, 2740, 325614, 521417 ]
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また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。
[ "江戸時代", "蘭学", "コーヒー", "どんたく", "オランダ語" ]
[ 1763, 48481, 638197, 208624, 21033 ]
[ 2740, 89508, 1965494, 525849, 36469 ]
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幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。
[ "幕末", "明治", "外来語", "坪内逍遥", "当世書生気質", "書生" ]
[ 7981, 1126, 14662, 29851, 349621, 57686 ]
[ 13313, 1803, 24419, 53541, 968122, 110208 ]
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第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では、報道・交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。
[ "第二次世界大戦", "外来語", "語種" ]
[ 810952, 14662, 356343 ]
[ 2593589, 24419, 987307 ]
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漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。
[ "名詞", "サ行変格活用", "形容動詞" ]
[ 20598, 104491, 20899 ]
[ 35770, 221863, 36297 ]
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漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に、和語は一語が広い意味で使われる。たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。
[ "動詞", "サ行変格活用", "形容詞", "形容動詞" ]
[ 20603, 104491, 20809, 20899 ]
[ 35775, 221863, 36137, 36297 ]
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外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。
[ "外来語", "生産性 (言語学)", "名詞", "サ行変格活用", "形容動詞" ]
[ 14662, 703039, 20598, 104491, 20899 ]
[ 24419, 2196471, 35770, 221863, 36297 ]
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漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。
[ "外来語", "形容詞", "形容動詞", "万葉集", "名詞", "動詞", "語幹", "品詞", "語彙", "サ行変格活用" ]
[ 14662, 20809, 20899, 461698, 20598, 20603, 144274, 1699, 144408, 104491 ]
[ 24419, 36137, 36297, 1342752, 35770, 35775, 336873, 2623, 337242, 221863 ]
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形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である。
[ "形容詞", "生産性 (言語学)", "形容動詞", "外来語", "語幹", "語種" ]
[ 20809, 703039, 20899, 14662, 144274, 356343 ]
[ 36137, 2196471, 36297, 24419, 336873, 987307 ]
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元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている)。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。6世紀〜7世紀になると儒教、仏教、道教などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった。
[ "日本", "神代文字", "福岡市", "漢委奴国王印", "古事記", "応神天皇", "百済", "王仁", "論語", "千字文", "5世紀", "雄略天皇", "隅田八幡神社", "6世紀", "漢文", "ヤマト王権", "使用域", "7世紀", "儒教", "仏教", "道教" ]
[ 1384029, 11325, 607752, 71255, 5488, 25087, 18885, 109897, 1131, 118935, 2818, 50144, 292693, 3110, 33147, 3348, 939172, 2843, 1289, 2643, 444064 ]
[ 4821051, 18800, 1860772, 141084, 8621, 43492, 31860, 237455, 1808, 265286, 4428, 93556, 791456, 4851, 60343, 5157, 3091741, 4464, 2017, 4182, 1281837 ]
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漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。
[ "和歌", "大和言葉", "万葉集", "8世紀", "万葉仮名", "7世紀", "木簡" ]
[ 8934, 131876, 461698, 2678, 34227, 2843, 130740 ]
[ 14815, 301398, 1342752, 4231, 62303, 4464, 298030 ]
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9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。
[ "9世紀", "万葉仮名", "讃岐国", "申文", "平仮名", "10世紀", "古今和歌集", "11世紀" ]
[ 2720, 34227, 443613, 561866, 1838, 2719, 24263, 2718 ]
[ 4276, 62303, 1280324, 1700167, 2861, 4275, 41963, 4274 ]
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僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。
[ "漢文", "助詞", "漢文訓読", "万葉仮名", "片仮名" ]
[ 33147, 15564, 322639, 34227, 6323 ]
[ 60343, 25842, 884060, 62303, 10270 ]
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平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、/ha/(当時の発音は [ɸa])に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。
[ "平仮名", "片仮名", "ヘクタール", "1900年", "明治", "小学校令", "変体仮名" ]
[ 1838, 6323, 6882, 1660, 1126, 66653, 65009 ]
[ 2861, 10270, 11291, 2566, 1803, 130603, 126949 ]
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平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([ɸa]) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。
[ "平安時代", "ハ行転呼" ]
[ 450414, 134585 ]
[ 1302925, 309259 ]
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その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。
[ "藤原定家", "下官集", "歌人", "国学", "明治" ]
[ 8901, 764868, 440529, 23371, 1126 ]
[ 14760, 2421793, 1268862, 40379, 1803 ]
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漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた。
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仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。1904年から使用の『尋常小学読本』(第1期)はこの棒引き仮名遣いに従った。しかし、これは評判が悪く、規則の改正とともに、次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。
[ "小学校令", "1900年", "1904年", "1910年" ]
[ 66653, 1660, 1606, 1611 ]
[ 130603, 2566, 2505, 2511 ]
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第二次世界大戦後の1946年には、「当用漢字表」「現代かなづかい」が内閣告示された。これに伴い、一部の漢字の字体に略字体が採用され、それまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。
[ "第二次世界大戦", "1946年", "当用漢字", "現代仮名遣い", "歴史的仮名遣" ]
[ 810952, 1649, 6289, 26407, 6419 ]
[ 2593589, 2554, 10184, 46386, 10450 ]
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1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した。 1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めた「常用漢字表」および改訂「現代仮名遣い」が内閣告示された。また、送り仮名に関しては、数次にわたる議論を経て、1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。
[ "1946年", "1950年", "アメリカ教育使節団報告書", "国字", "国語審議会", "1948年", "連合国軍最高司令官総司令部", "民間情報教育局", "識字", "1981年", "当用漢字", "現代仮名遣い", "1973年" ]
[ 1649, 1655, 86415, 8969, 308925, 1652, 10357, 441337, 6673, 297479, 6289, 26407, 470 ]
[ 2554, 2560, 176840, 14874, 842800, 2557, 17132, 1271790, 10928, 806858, 10184, 46386, 898 ]
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平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。
[ "平安時代", "漢文", "朝鮮半島", "中国語" ]
[ 450414, 33147, 9986, 3662 ]
[ 1302925, 60343, 16498, 5698 ]
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漢文訓読の習慣に伴い、漢文に日本語特有の「賜」(...たまふ)や「坐」(...ます)のような語句を混ぜたり、一部を日本語の語順で記したりした「和化漢文」というべきものが生じた(6世紀の法隆寺薬師仏光背銘などに見られる)。さらには「王等臣等乃中尓」(『続日本紀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」といった助詞などを小書きにして添える文体が現れた。この文体は祝詞(のりと)・宣命(せんみょう)などに見られるため、「宣命書き」と呼ばれる。
[ "漢文訓読", "漢文", "語順", "6世紀", "法隆寺金堂薬師如来像光背銘", "続日本紀", "助詞", "捨て仮名", "祝詞", "宣命" ]
[ 322639, 33147, 28668, 3110, 812409, 46961, 15564, 52499, 60950, 516413 ]
[ 884060, 60343, 51267, 4851, 2598892, 86001, 25842, 98526, 117655, 1558304 ]
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漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にした「漢字片仮名交じり文」を形成した。最古の例は『東大寺諷誦文稿』(9世紀)とされる。漢字片仮名交じり文では、漢語が多用されるばかりでなく、言い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「何(なん)ゾ言ハザル」のように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。
[ "漢文", "片仮名", "漢文訓読", "仮名交じり文", "東大寺", "9世紀" ]
[ 33147, 6323, 322639, 358282, 494477, 2720 ]
[ 60343, 10270, 884060, 993328, 1476970, 4276 ]
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一方、平安時代の宮廷文学の文体(和文)は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうの「甚ダ広クシテ」「何ゾ言ハザル」は、和文では「いと広う」「などかのたまはぬ」となる。和文は、表記法から見れば、平仮名にところどころ漢字の交じる「平仮名漢字交じり文」である。「春はあけぼの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりて......」で始まる『枕草子』の文体は典型例の一つである。
[ "平安時代", "漢文訓読", "平仮名", "枕草子" ]
[ 450414, 322639, 1838, 9562 ]
[ 1302925, 884060, 2861, 15809 ]
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両者の文体は、やがて合わさり、『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。
[ "和漢混淆文" ]
[ 27771 ]
[ 49195 ]
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ここでは、「強呉」「荊棘」といった漢語、「すでに」といった漢文訓読の言い回しがある一方、「かくやとおぼえて哀れなり」といった和文の語彙・言い回しも使われている。
[ "漢文訓読" ]
[ 322639 ]
[ 884060 ]
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今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。「先日、友人と同道して郊外を散策した」というような漢語の多い文章と、「この間、友だちと連れだって町はずれをぶらぶら歩いた」というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。
[ "和漢混淆文" ]
[ 27771 ]
[ 49195 ]
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話し言葉は、時代と共にきわめて大きな変化を遂げるが、それに比べて、書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため、何百年という間には、話し言葉と書き言葉の差が生まれる。
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日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。
[ "平安時代", "中世", "江戸時代", "洒落本", "滑稽本" ]
[ 450414, 16586, 1763, 30460, 30461 ]
[ 1302925, 27550, 2740, 54746, 54747 ]
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明治時代の書き言葉は、依然として古典文法に従おうとしていたが、単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は、一般に「普通文」と称された。普通文は、以下のように小学校の読本でも用いられた。
[ "明治" ]
[ 1126 ]
[ 1803 ]
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普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、「解釈せらる」というべきところを「解釈さる」、「就学せしむる義務」を「就学せしむるの義務」などと言うことがあった。そこで、文部省は新しい語法のうち一部慣用の久しいものを認め、「文法上許容スベキ事項」(1905年・明治38年)16条を告示した。
[ "1905年", "明治" ]
[ 1607, 1126 ]
[ 2506, 1803 ]
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一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた(言文一致運動)。二葉亭は「だ」体、美妙は「です」体、尾崎紅葉は「である」体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。
[ "明治", "二葉亭四迷", "山田美妙", "言文一致", "尾崎紅葉", "第二次世界大戦" ]
[ 1126, 15429, 48484, 131890, 48478, 810952 ]
[ 1803, 25614, 89517, 301442, 89503, 2593589 ]
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日本語は、文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」という記述が見え、これが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。
[ "万葉集", "防人歌", "820年", "東大寺", "飛騨弁" ]
[ 461698, 309774, 24004, 494477, 646115 ]
[ 1342752, 845227, 41342, 1476970, 1992114 ]
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平安時代から鎌倉時代にかけては、中央の文化的影響力が圧倒的であったため、方言に関する記述は断片的なものにとどまったが、室町時代、とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果、地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが、古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。
[ "平安時代", "鎌倉時代", "室町時代", "抄物" ]
[ 450414, 131356, 131355, 203729 ]
[ 1302925, 299798, 299797, 511030 ]
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安土桃山時代から江戸時代極初期にかけては、ポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているが、その中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録した『日葡辞書』(1603年〜1604年)や、筑前や備前など各地の方言の言語的特徴を記した『ロドリゲス日本大文典』(1604年〜1608年)はその代表である。
[ "安土桃山時代", "江戸時代", "宣教師", "九州方言", "日葡辞書", "1603年", "1604年", "日本大文典", "1608年" ]
[ 9906, 1763, 16679, 81907, 90591, 2695, 7029, 1293297, 7666 ]
[ 16342, 2740, 27718, 165683, 187319, 4249, 11516, 4473891, 12808 ]
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この時期には琉球方言(琉球語)の資料も登場する。最古期に属するものとしては、中国資料の『琉球館訳語』(16世紀前半成立)があり、琉球の言葉を音訳表記によって多数記録している。また、1609年の島津侵攻事件で琉球王国を支配下に置いた薩摩藩も、記録類に琉球の言葉を断片的に記録しているが、語史の資料として見た場合、琉球諸島に伝わる古代歌謡・ウムイを集めた『おもろさうし』(1531年〜1623年)が、質・量ともに他を圧倒している。
[ "琉球諸語", "柔遠駅", "16世紀", "1609年", "琉球王国", "薩摩藩", "琉球諸島", "おもろさうし", "1531年", "1623年" ]
[ 6062, 873066, 2750, 2814, 36986, 12637, 388662, 148580, 5412, 7199 ]
[ 9808, 2829321, 4326, 4424, 67362, 21132, 1090463, 349212, 8502, 11937 ]
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奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家へ征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語と見なされるようになった。
[ "奈良時代", "江戸幕府", "近畿方言", "征夷大将軍", "江戸言葉", "明治", "東京方言" ]
[ 2055, 5378, 185180, 2588, 72941, 1126, 7261 ]
[ 3202, 8455, 453362, 4096, 144870, 1803, 12062 ]
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明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された。
[ "伊沢修二", "東北方言", "方言札" ]
[ 126874, 174551, 233978 ]
[ 287299, 422103, 607746 ]
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一方、戦後になると各地の方言が失われつつあることが危惧されるようになった。NHK放送文化研究所は、(昭和20年代の時点で)各地の純粋な方言は80歳以上の老人の間でのみ使われているにすぎないとして、1953年から5年計画で全国の方言の録音を行った。この録音調査には、柳田邦夫、東条操、岩淵悦太郎、金田一春彦など言語学者らが指導にあたった。
[ "NHK放送文化研究所", "昭和", "1953年", "柳田邦夫", "東条操", "岩淵悦太郎", "金田一春彦" ]
[ 231096, 1115, 1658, 653858, 261462, 419106, 48398 ]
[ 597865, 1789, 2563, 2019652, 695954, 1195594, 89333 ]
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ただし、戦後しばらくは共通語の取得に力点を置いた国語教育が初等教育の現場で続き、昭和22年(1947年)の学習指導要領国語科編(試案)では、「なるべく、方言や、なまり、舌のもつれをなおして、標準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいことばをつかい、俗語または方言をさけるようにする」との記載が見られる。また、昭和33年(1958年)の小学校学習指導要領でも、「小学校の第六学年を終了するまでに, どのような地域においても, 全国に通用することばで, 一応聞いたり話したりすることができるようにする」との記述がある。
[ "国語教育", "昭和", "1947年", "学習指導要領", "俗語", "1958年" ]
[ 421958, 1115, 1650, 48337, 55078, 1228 ]
[ 1205628, 1789, 2555, 89159, 104208, 1936 ]
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また、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市立腰越小学校では、1960年代に、「ネサヨ運動」と称して、語尾に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた。同趣の運動は全国に広がった。
[ "1950年代", "鎌倉市立腰越小学校", "1960年代", "関東方言" ]
[ 1028, 388053, 1026, 252525 ]
[ 1660, 1088630, 1658, 667914 ]
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高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、「方言を残しておきたい」と回答する者が90%以上に達する結果が出ている。方言の共通語化が進むとともに、いわゆる「方言コンプレックス」が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。
[ "1980年代" ]
[ 474 ]
[ 902 ]
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1990年代以降は、若者が言葉遊びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(とても)かわいいー!」「いくべ」などと各地の方言を会話に織り交ぜて使うことが流行し始め、女子高生のための方言参考書の類も現れた。「超おもしろい」など「超」の新用法も、もともと静岡県で発生して東京に入ったとされるが、若者言葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっている(「方言由来の若者言葉」を参照)。
[ "1990年代", "言葉遊び", "1995年", "DA.YO.NE", "EAST END×YURI", "近畿方言", "2005年", "静岡県", "若者言葉" ]
[ 905, 4346, 655728, 598101, 143342, 185180, 142787, 172, 558719 ]
[ 1484, 6790, 2025673, 1827270, 334234, 453362, 332554, 403, 1689953 ]
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方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の「ケセン語」研究に見られるように、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。
[ "方言学", "山浦玄嗣", "ケセン語" ]
[ 13427, 276442, 193083 ]
[ 22394, 741437, 478930 ]
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日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、『古事記』『万葉集』の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。
[ "古事記", "万葉集", "江戸時代", "言語学" ]
[ 5488, 461698, 1763, 63 ]
[ 8621, 1342752, 2740, 159 ]
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以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。
[ "江戸時代" ]
[ 1763 ]
[ 2740 ]
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江戸時代以前の日本語研究の流れは、大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究、悉曇学者による研究、歌学者による研究である。
[ "江戸時代", "中国語", "悉曇学", "歌学" ]
[ 1763, 3662, 258671, 159908 ]
[ 2740, 5698, 686828, 381241 ]
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中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の訓読により、中国語にない助詞・助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。
[ "中国語", "音節", "古事記", "固有語", "漢文", "助詞", "漢文訓読", "片仮名" ]
[ 3662, 35461, 5488, 230035, 33147, 15564, 322639, 6323 ]
[ 5698, 64616, 8621, 594476, 60343, 25842, 884060, 10270 ]
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日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、後にあらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立している。平安時代初期に「天地の詞」が、平安時代中期には「いろは歌」が現れた。これらはほんらい漢字音のアクセント習得のために使われたとみられるが、のちにいろは歌は文脈があって内容を覚えやすいことから、『色葉字類抄』(12世紀)など物の順番を示す「いろは順」として用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。
[ "平安時代", "あめつちの詞", "いろは歌", "色葉字類抄", "12世紀", "いろは順" ]
[ 450414, 429617, 6596, 696146, 1574, 12503 ]
[ 1302925, 1231504, 10784, 2169142, 2452, 20914 ]
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一方、悉曇学の研究により、梵語(サンスクリット)に整然とした音韻組織が存在することが知られるようになった。平安時代末期に成立したと見られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な......」の行の並び方が梵語の悉曇章(字母表)の順に酷似しており、悉曇学を通じて日本語の音韻組織の研究が進んだことをうかがわせる。もっとも、五十音図作成の目的は、一方では、中国音韻学の反切を理解するためでもあった。当初、その配列はかなり自由であった(ほぼ現在に近い配列が定着したのは室町時代以後)。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚の『反音作法』に見られる。明覚はまた、『悉曇要訣』において、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。
[ "悉曇学", "サンスクリット", "平安時代", "五十音", "反切", "室町時代" ]
[ 258671, 4413, 450414, 6424, 59412, 131355 ]
[ 686828, 6910, 1302925, 10458, 114213, 299797 ]
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歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、「てにをは」の研究、さらに仮名遣いへの研究に繋がった。
[ "歌学", "平安時代", "和歌" ]
[ 159908, 450414, 8934 ]
[ 381241, 1302925, 14815 ]
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このうち、古語の研究では、語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば、顕昭の『袖中抄』では、「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)、「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」と説明している。このように、「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。
[ "音韻論", "顕昭", "袖中抄" ]
[ 93015, 92816, 1208135 ]
[ 193880, 193414, 4145479 ]
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「てにをは」の本格的研究は、鎌倉時代末期から室町時代初期に成立した『手爾葉大概抄』という短い文章によって端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺社であるとすれば、『てにをは』はその荘厳さに相当するものだ」と規定した上で、係助詞「ぞ」「こそ」とその結びの関係を論じるなど、「てにをは」についてごく概略的に述べている。また、室町時代には『姉小路式』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「てにをは」の用法をより詳細に論じている。
[ "鎌倉時代", "室町時代", "名詞", "動詞", "品詞", "助詞" ]
[ 131356, 131355, 20598, 20603, 1699, 15564 ]
[ 299798, 299797, 35770, 35775, 2623, 25842 ]
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仮名遣いについては、鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし、定家はその著作『下官集』において、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名表記に求め、規範を示そうとした。ところが「お」と「を」の区別については、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音となり発音上の区別が無くなっていたことにより、相当な表記の揺れがあり、格助詞の「を」を除き前例による基準を見出すことができなかった。そこで『下官集』ではアクセントが高い言葉を「を」で、アクセントが低い言葉を「お」で記しているが、このアクセントの高低により「を」と「お」の使い分けをすることは、すでに『色葉字類抄』にも見られる。南北朝時代には行阿がこれを増補して『仮名文字遣』を著し、これが後に「定家仮名遣」と呼ばれる。行阿の姿勢も基準を古書に求めるというもので、「お」と「を」の区別についても定家仮名遣の原則を踏襲している。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの一大変化があり、[wo]の音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果「お」と「を」の仮名遣いについては、定家が示したものとは齟齬を生じている。
[ "鎌倉時代", "藤原定家", "下官集", "平安時代", "助詞", "色葉字類抄", "行阿", "定家仮名遣" ]
[ 131356, 8901, 764868, 450414, 15564, 696146, 162215, 80437 ]
[ 299798, 14760, 2421793, 1302925, 25842, 2169142, 387842, 161905 ]
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なお、「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで、五十音図においても鎌倉時代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは、江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。
[ "五十音", "鎌倉時代", "江戸時代", "本居宣長" ]
[ 6424, 131356, 1763, 41524 ]
[ 10458, 299798, 2740, 75298 ]
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外国人による日本語研究も、中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』(1603年)が編纂され、同会のロドリゲスによる文法書『日本大文典』(1608年)および『日本小文典』(1620年)は、ラテン語の文法書の伝統に基づいて日本語を分析したもので、いずれも価値が高い。一方、中国では『日本館訳語』(1549年頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676年)といった日本語学習書が編纂された。
[ "中世", "イエズス会", "ポルトガル語", "日葡辞書", "1603年", "日本大文典", "1608年", "日本", "1620年", "ラテン語の文法", "1549年", "李氏朝鮮", "1676年" ]
[ 16586, 5299, 5911, 90591, 2695, 1293297, 7666, 1384029, 9209, 191817, 7866, 3411, 8216 ]
[ 27550, 8337, 9542, 187319, 4249, 4473891, 12808, 4821051, 15266, 474730, 13128, 5260, 13710 ]
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日本語の研究が高い客観性・実証性を備えるようになったのは、江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い、『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により、古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した見出し語は、後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯』(1765年)で増補され、後世において歴史的仮名遣いと称された。
[ "江戸時代", "契沖", "万葉集", "1695年", "楫取魚彦", "1765年", "歴史的仮名遣" ]
[ 1763, 92724, 461698, 2904, 158996, 7941, 6419 ]
[ 2740, 193194, 1342752, 4565, 378651, 13257, 10450 ]
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古語の研究では、松永貞徳の『和句解』(1662年)、貝原益軒の『日本釈名』(1700年)が出た後、新井白石により大著『東雅』(1719年)がまとめられた。白石は、『東雅』の中で語源説を述べるに当たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「義未詳」として曲解を排した。また、賀茂真淵は『語意考』(1789年)を著し、「約・延・略・通」の考え方を示した。すなわち、「語形の変化は、縮める(約)か、延ばすか、略するか、音通(母音または子音の交替)かによって生じる」というものである。この原則は、それ自体は正当であるが、後にこれを濫用し、非合理な語源説を提唱する者も現れた。語源研究では、ほかに、鈴木朖が『雅語音声考』(1816年)を著し、「ほととぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほととぎ」「うぐい」「から」の部分は鳴き声であることを示すなど、興味深い考え方を示している。
[ "松永貞徳", "1662年", "貝原益軒", "日本", "釈名", "1700年", "新井白石", "東雅", "1719年", "賀茂真淵", "1789年", "母音", "子音", "鈴木朖", "1816年" ]
[ 93579, 5579, 91192, 1384029, 807406, 7548, 30006, 1280497, 3055, 4908, 3459, 35881, 35876, 921193, 3330 ]
[ 195190, 8758, 189219, 4821051, 2579956, 12603, 53812, 4433178, 4794, 7709, 5363, 65427, 65418, 3018634, 5136 ]
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本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず、仮名遣いの分野では、『字音仮字用格』(1776年)を著し、漢字音を仮名で書き表すときにどのような仮名遣いを用いればよいかを論じた。その中で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」と「を」の位置が誤って記されている(前節参照)という事実を指摘し、実に400年ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の形に戻した。この事実は、後に東条義門が『於乎軽重義』(1827年)で検証した。また、宣長は文法の研究、とりわけ係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。
[ "本居宣長", "1776年", "鎌倉時代", "五十音", "東条義門", "1827年", "係り結び", "1771年", "1779年", "連体形", "已然形", "主格", "助詞", "万葉集" ]
[ 41524, 2887, 131356, 6424, 769843, 3102, 114591, 3322, 3321, 167944, 167663, 137662, 15564, 461698 ]
[ 75298, 4543, 299798, 10458, 2439608, 4842, 251566, 5128, 5127, 403916, 403046, 317862, 25842, 1342752 ]
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品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・形容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄』(1767年)では今日で言う副詞の類を中心に論じた。特に注目すべき著作は『脚結抄』(1778年)で、助詞・助動詞を系統立てて分類し、その活用の仕方および意味・用法を詳細に論じた。内容は創見に満ち、今日の品詞研究でも盛んに引き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に記された「装図」は、動詞・形容詞の活用を整理した表で、後の研究に資するところが大きかった。
[ "品詞", "富士谷成章", "名詞", "動詞", "形容詞", "挿頭", "副詞", "助詞", "1767年", "1778年" ]
[ 1699, 162738, 20598, 20603, 20809, 242027, 14622, 15564, 2744, 3068 ]
[ 2623, 389265, 35770, 35775, 36137, 635050, 24344, 25842, 4317, 4807 ]
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歴史
活用の研究は、その後、鈴木朖の『活語断続譜』(1803年頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806年)に引き継がれた。幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、富樫広蔭が『辞玉襷』(1829年)を著すなど、日本語の活用が組織化・体系化されていった。
[ "鈴木朖", "1803年", "本居春庭", "1806年", "幕末", "1844年", "富樫広蔭", "1829年" ]
[ 921193, 3281, 170096, 3074, 7981, 3069, 1226175, 3323 ]
[ 3018634, 5064, 410042, 4813, 13313, 4808, 4213057, 5129 ]
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日本語
歴史
このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したもので、長らく正当な扱いを受けなかったが、後に橋本進吉が上代特殊仮名遣の先駆的研究として再評価した。
[ "江戸時代", "石塚龍麿", "万葉集", "橋本進吉", "上代特殊仮名遣" ]
[ 1763, 54877, 461698, 48345, 93192 ]
[ 2740, 103625, 1342752, 89175, 194314 ]